円城寺の提婆宮

空気が澄んで景色の輪郭がくっきり見えるようになりましたね。夏に押され、冬に追い立てられている今、短い秋が華やかに岡山を彩っています。

先日、吉備中央町の円城寺にお邪魔しました。円城寺は創建715年の大変古い天台宗の寺院です。本堂の天井に植物・動物等が描かれた天井画は大変迫力があり、首が痛くなるまで眺めていたくなります。

さて、神仏習合のこの寺院で有名なのは本堂の左後方、杉の木を背景に佇む提婆宮です。提婆天(弁財天)を寺域の鎮守として奉祀されたもので、芸能の神として紹介されています。ただ、ある伝説にある「加茂の提婆は人を取る」という言葉どおり恐ろしい側面もある神様とされています。

具体的な内容としては、境内の古木に呪いの釘を打つと提婆天のお使いの白狐がその相手を懲らしめる、というお話です。お宮の後ろの壁には今もなお白狐が通るための穴が開けてあってとてもリアルでした。

この部分だけですと大変恐ろしいのですが、住職にお伺いした別のエピソードを聞いてちょっと考えがかわりました。それは「円城寺の娘を離縁すると提婆が走る」と、いうものです。どうやらこの地域の娘さんを嫁にとってひどい目にあわせると、提婆天に罰されてしまう、との事。恐ろしいというより私はなにか愛情が深すぎる(失礼を承知で申し上げるとちょっとモンペっぽい?)お母さんを想像しました。

そう考えると、「呪い釘」の伝説もほかの考え方ができます。もともと提婆天は復讐の神様ではありません。芸能の神であり、地域の境界を悪霊や疫病から守る神です。(特に笛が上手に吹けなくて泣いている子どもにお手本を見せてあげる民話は素敵です!)

きっと、“誰にも言えない悲しみ”や“どうにもならない痛み”を抱えて神の前に立った人を放っておけなかった、人間を愛しすぎて寄り添いすぎた神様だったのではないでしょうか。

刀を握れば自分の手も傷つきます。私は直接見る勇気がありませんでしたが。お宮の裏の杉の樹には今も穿たれた釘の傷が残っているそうです。提婆天は「仕返しをしてくれる強い神」ではなく、人の悲しみを代わりに背負って自らも傷つき涙を流す。そんな存在だったのでは、と勝手にイメージしてしまいました。

生きている限り、誰かをうらやんでしまったり、悲しかったり苦しかったりする気持ちがあります。きっとそれは誰もが一生懸命生きている証です。提婆天の手を煩わせる前に、皆様はそんなネガティブな気持ちをどのような方法でリフレッシュをしていますか?

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